斎藤一人の演出とは感動である2
おはようございます。
斉藤一人です。よろしくお願いします。
先ほどですね、ビデオ反対になっちゃうんですけど感動っていうビデオを撮った後なんです、今。
それで、この前演出という話をしたんですよ。
それで、演出とは感動であるっていうことなんですけど、できたら演出のビデオをまだ取ってない、見たことがない人がいっぱいいるっていうことなんですよね。
それで、じゃ、演出のを取ろうじゃないかっていうことです。
そのことをもし感動のビデオを見られる方は、「演出とは感動である」っていうことを覚えてください。
感動を与える演出とは
私は青森が好きでよく青森行くんですよ。
それで青森のですね、イカ屋のおばちゃんってのがいてですね。
一夜干しのイカ売ってるんですけど、非常においしいんですよ。
一枚100円とか200円です。
時によって相場が違うんです。
ただまぁ、相当大きいこんな大きいようなイカでも、250円位の話です。
で、非常においしいんですよ。
どのぐらいおいしいかって言うと、もう今まで食べたイカの中で一番おいしいぐらいなんです。
青森にですね、それと、十三湖にシジミ売ってるとこがあって、そのシジミ定食ってのがあるの。
1,100円なんです。
上ですよ。
シジミがこんなでかいのにご飯とかね、イカ刺しが付いてほんとにうまいんです。
何言いたいんですかっつったとき、そのもう一つ、おいしいものをね、ものすごく安く食わしてるとこがあるんですよ。
で、これは一つの方法なんですよ。
で、もう一つ京懐石っていうのがあるんです。
この京懐石ってなんですかっていうと、まぁおいしいんですけど、まぁ何言いたいかっていうと、京懐石って少なくとも1万5千円とか2万円とかっていうことなんですよ。
で、味っていうのは限界がありますから、京都みたいに海のないとこでどだい青森のイカ刺しよりうまいもの食わせるってのは無理なんですよね。
わかりますよね、それね。
決して京都の悪口じゃないんですよ、これ。
地理的な問題の話でただ、ちょっとしてるだけなんですよ。
で、お刺身なんていうのはね、一夜干しなんていうのは切って出すだけですから、板前さんがいくら張り切ったって切るしかできないんですから…ということなんですね。
煮物やなんかもそうなんですよ。
で、味っていうのは煮物なんかもそうなんだけど、ほんとにこう、板前さんが10年かけて修業したものもあるんだけど、田舎のお母ちゃんが「野菜ずっと作ってます」、板前が「俺は20年の経験がある」ったって、田舎のおばあちゃんは50年ぐらいの経験があるんです。
事実野菜だけ煮たりしてますから。
おいしいんですよ、田舎の料理って。
で、ただ問題はですね、片っぽの方が2万円とか3万円、取れるんです。
納得して出すんです。
もてなす心を伝える演出
廬山人っていうのは料理の名人なんですけど、それが料亭やってた時一番話題を呼んだのが、どこだったか忘れちゃったんだけど。
そこからね、昔鮎をね、獲れたての鮎を汽車に…トラックかな?
もうね、途中空気送って、今みたく冷凍物ないから。
それをね、生きた鮎を持ってきて、料亭で食わしたから、昔のなんていうの、お金持ちとかね、男爵だとか子爵だとか、みんなそこへ食べに来ておいしいって言ったんですよ。
ただ、簡単なこと言うと、生きてるけど弱ってるんです、それ。
わかりますよね。
所詮そんなのは、そこの川で食った、ここのがおいしいから、このまま食わしたい、とかって言うけど、ほんとはこのままじゃないんですよ。
そんなの、10時間もトラックに揺られて来てたようなものはね、生きてたっていうだけで、死にかけてたの。
それとその川で獲ったのとは違うんですよ。
わかります?
ところがその演出ですね。
何時間かけて持ってきて、これを食べさせたいんだっていう、その演出ですね。
これに心を打たれるんですよ。
感動ですね。
だから演出とは感動なんですよね。
わかります?
だからイカのおばちゃんよりも、京都の人たちの方が感動を与えるのがうまいんです。
わかりますよね。
茶道なんて…茶道やってる人がこれ聞いたら絶対怒ると思うんですけど、敢えて言いますけどお茶を一杯飲むのに袴まで穿いて。
それが必要なんですか?ほんとに。
なんかサッサッとほんとは淹れられるんですよ。
お点前だろうが、あれ泡立てですからね。
それにこう、修行して、ただそれだけじゃないんですよ。
そこにはやっぱし、入り方、掛かってる額、器、全部のものの演出なんですよ。
だからいかにしてお客さんをもてなすか、自分が気分良くなれるかという演出なんですよね。
その演出というもの…で、演出っていうのは心が伴いますから、心だって言うけど、心にはまた演出も伴うんです。
どういうふうにしたら、お客さんを迎えられるか。
そのお茶みたいなの考えちゃうような人だから、飯だって考えちゃいますよ。
お茶一杯だってあのぐらい考えたんだから、ご飯なんか食わそうって言ったら大変なこと考えて、大変なことするんですよ。
それを言いたいだけなのね。
で、料理屋さん、掛け軸がかかってたり、良い着物着てたりね。
で、京都の人ってまたそれをわかってくれるの。
あそこは料理の話ってあんましない。
「あそこの女中さんは来てるのは安物の着物なの」とか、「あそこの女中さんは着物はすごく良いんですよ」、「着てるものが良いし」…
着てるものがいいと、お料理が千円高くたって許してくれたりする土壌があるんです、演出に対してお金を払うという。
それがこう、演出というのがないとね、物だけ見ていくらだっていうことになっちゃいますよね。
その演出というのをしないと、イカ屋のおばちゃんになっちゃう。
問題はイカ屋のおばちゃんは、安くていいもの売ってんだとしたら、京都の懐石料理屋より金持ってなきゃいかないんだけど、金は相変わらずないんですよ。
良い人なんですよ。
だから商売ってなんですかって言ったとき、演出というものを加味しないと、どんなにすばらしいことをしてても、貧しく生きなきゃならないんです。
で、商売とは何ですかって言った時に、演出なんです。
あれはもう、材料…懐石料理の材料集めちゃって一つの皿に…例えば漁師が作って、一つの皿なんかにポンと出したとするでしょ?
2,000円取れるか取れないかなんですよ。
それがこう、一個一個器にこうなっちゃって、能書きがついて、「この大きさは…」とかって言うと、「わぁそんなすばらしい、この器は」とかって、思ってるんですけど器持って帰る人いないの?
そういういろんな演出を加味する。
この前テレビ見てたら感心して、摘草料理っていうのをやってるとこがある。
そこの二代目が、跡取る時になった時に、「お前、跡取るんだったら大根っていうものを料理して俺に食わしてくれ」って言われて。
そうしたら、それを大根って大根ですからね、似たって焼いたって大根だから…その大根で満足させる。
そしたらそこの二代目がずーっと考えてる。
来た時に、味の問題じゃなくてね、こっち来てくださいって通されたら、ほんとに野原の良いところで赤い棒線引いて、山のとこで柿みたいのあるとこで、棒線引いて。
で、お酒が出てて、そこに籠があって大根を炊くんだよね。
で、こう出てきて、そのロケーション。
で、「いかがですか」って言った時、『自分のためにここに窯作って、こういうふうにしたんだ』
そう思った時、これが何千円でもいいんですよ。
ところが田舎のおばちゃんが「大根煮たんだけど」って言ったら、金取れないでサービスで出すか、300円取れるかっていう問題になっちゃうんです。
その演出、気持ち。
これを大切にしなきゃいけない。
だから京都の鴨川なんか行くと、夏になって川辺に桟敷みたいのが出てんですよ。
そこでお酒飲んでてね、夕方になると新内なんか流してきて、三味線かなんか弾きながら来るんですよ。
それでうれしくなって時代劇じゃないけど、お捻りかなんかっつってポーンとやるとね、歌ってくれたりなんかするんですよね。
そういうムードとか演出、これが上方の人はうまいんですよ。
東北の方へ行くと、段々段々ね、素朴になる。
素朴はいけないんじゃないですよ。
ただ、素朴で豊かはイコールになんないんです。
素朴はいいんですよ。
やっぱし仕事っていうのは演出なんです。
で、演出がお金の多募に加算されてくるんです。
そうするとうちの人たちも、心の中の感動、演出。
「ここのもんはこんなにすばらしいんですよ」
うちは玄関でやってる人、玄関ででもやりたくなっちゃうようなこんだけの人がいます。
和美さんがうちの仕事、玄関で始めたって言ってますけどね。
玄関で始めて、商売がこんなに繁盛しちゃったのはなぜかっていうと、自分の体が良くなった、子どもが病気から救われた、健康になった、その喜びを一生懸命伝える。
するとそれが相手に感動を与えたんですよ。
玄関で一生懸命やってっから、感動を与えるんじゃない。
やっぱり、そこのところで一生懸命相手にどういう感動を与えられるか。
「あぁ、そうなんだ」
その感動というものを与えてたらちっちゃいお店ができた。
ちっちゃいお店でも、玄関より、玄関でやってても繁盛してたぐらいだから、今度ここに移れたら「あんた頑張ってるね」、そういう人に共鳴するもんなんですよ。
段々段々感動が感動を呼んで、大きくなるのね。
感動を与えられなくなったとき、そこの企業はストップするんです。
今日本は10年も不況が続いてるのは、感動を与えられないんです。
感動がないんです。
あとね、感動っていうのは演出で、恐怖が半分なんです。
変な宗教が出てきて、「あんたは先祖がどうしてる」だとか、こうだとかって、あれだって感動って心の動きですからね。
うんと不安を与えちゃったって、人間ってのはおっかなくなりゃ金出すんですよ。
わかります?
これはいいか悪いかわかんないけど、早期、すぐ発見しないと癌だ手遅れになる、死んじゃう死んじゃうって言ってりゃ医療費だけは跳ね上がります。
恐怖でも感動はしますよ。
感動すればお金は動くんです。
でも恐怖を与えながらお金を取る。
恐喝だってそうですよ。
「金出さないとぶん殴るぞ」こう言うから持ってくるんですよ。
でもまともな人間っていうのは、人に恐怖を与えて金を取るようなことっていうのはいいんだろうか。
それより喜びを与える。
逆に言うと、将来に不安を持ってた人が、安心する、心が落ち着く、これも感動なんですよ。
恐怖を取り除いてあげるのも感動なんですよ。
で、我々は青森のイカ屋さんになってはいけないんだ。
我々は良いものは提供する、それは青森と同じ。
うちは高いものを売ってるわけじゃないんですよ。
だけど京都の人ぐらいの配慮、シャネルを売ってる人ぐらいの配慮は、私たちはプロとしてしていかなきゃいけない。
だから感動を与えてるだろうか。
で、演出としてできるだろうか。
だから有名な演出家っていうのがちゃんと演出してお芝居すると、わずか二時間ぐらいの劇の中で一生忘れられないような感動を与えることができるんですよ。
まして人間っていうのは、自分の生きてきた世界しか知らないんですよ。
だけどもう一つ別の人の生き方を見た時「あぁ、こういう生き方もあるんだ」、京都の懐石もそうです、「あぁ、こういう世界もあるんだ」いろんなことで感動を与える。
で、感動プラス商品なんです。
わかりますか?
だから商品だけ、だから同じこの物を売るのはいいんですよ。
値段も同じなんですよ。
この物だけを売ってる人と、これに感動をプラスして売ってる人がいるんですよ。
で、この感動をプラスした人は感動分だけサービスなんですよ。
わかる?
自分の体験談言ったり、これで良くなった人のこと言ったり。
それはどっか行くと自動販売機でポンと出てくるのと、その人が一生懸命説明して、この物のコンセプトを話して、他の物も話して、いろんなことをした時、この人が私のことを思ってくれてる、それが感動を与えるんです。
お茶の世界もそうです。
こんだけ主人と客しかいないのね。
すると「ここの主人…」と招いてくれた人は、「こんだけ気を使ってくれてるんだ」、「こんだけの演出してくれてるんだ」で、その演出を、演出が主役なんです。
お茶は媒介品なんです。
これはなんでも同じなんですよ。
このクリームでも、ご飯でも、全ては同じものなんです。
心というものは伴ってこないと、人に感動を与えられないんです。
で、感動を与えられない人は利益も何も手に入らない良き時代が来たんです。
心の時代なんです。
心ある人が商売出来る時代
昔はお客相手じゃなけりゃ、土地買ってようがなにしようが、そいつがどんなにブサイクな野郎でも愛想のない人でも、「この土地ください」って言えば不動産屋は売るんですよ。
ここの土地がほしい人は、ここの持ち主がブスッとしてたら買わないとかないんですよ。
ところが商売は違うんですよ。
愛想の悪いやつからモノを買わないんです。
だから株とか土地とかっていうのは、ずーっと考えてて「ほら当たった」って。
「この土地、ほら、上がったじゃないか」って。
そうするとコツコツコツコツ商売やってるやつがアホに見えるときがあるんですよ。
自分がすごく頭がよく見える時があるんですよ。
でもそんな時代は終わったんです。
もう二度と来ないんです。
あんな時代、来ちゃいけないんです。
だから一昔前は、金持ちは金に汚いだとか、金持ちは愛想が悪いだとか、金持ちは威張ってるとか、そんなことが通ったんです。
これからはまともな商人しか通らないんです。
ってことは、どっから見てもケチだ、どっから見ても愛想が悪い、どっから見ても威張ってるようなやつから、物は買わないんです。
わかりますか?
社長が威張り抜いてるようなやつってのは、どっか社員にもそういうところがあるんです。
その波動で集める。
そういうところはだめなんです。
やっぱしね、演出とは感動である。
感動は何から与えられるかって言ったら、愛なんです。
最終的に愛のない感動なんていうのは、与えられようがないんです。
愛のない感動は何ですかって、恐怖なんです。
必ず人が恐怖を覚えるようなことを言うんです。
立派なこと言っても帰りがけに「あんたしばらく交通事業に気をつけなさい」とか、必ず言うやつはいるんです、おかしなこと言うんです。
悪魔のささやきです。
人に恐怖を植え付けといて良いことなんかないんです。
良い感動を与えて帰らなきゃいけないんです。
ディズニーランドなんか恐怖なんか一つも植え付けないですよ。
ワクワクするんです。
それでまた行くんです。
だからこれからは、事業家とか商人…我々は商人なんだけど、心の伴わない演出をしたらダメです。
それから頭だけ使ってりゃ金持ちになれるのも無理です。
明治の時はそうだったんです。
人柄が悪かろうがなんだろうが、学校の成績が良けりゃほんとに出世できたの。
それの名残でそうだったもんだから、いくら威張ってるようなやつだろうがなんだろうが、良い学校出てるとほんとに出世したんです。
そういう時代があったんです。
で、それがずーっと続いたもんだから、今親は子どもを学校に入れりゃ良いと思ってるんです。
上役も出世…侍社会とかやっぱ、人柄が悪かろうがなんだろうが、上役になって下の人間がペコペコして聞いてなきゃなんなかったの、いけなかったの。
今、横暴な上役いたら会社辞めます。
部下が誰もついてこないですよ。
部下がついてこなかったらその人クビになりますよ。
いくら学校で成績が一番でも、人柄が悪いやつが通るような時代じゃないんですよ。
サラリーマンでもそうですよ。
世の中変わってきたんです。
心を伴って変わってきたんです。
で、心が伴って何かをした時、それに対して値をちゃんと払ってくれる時代が来たんです。
段々段々良い時代になってきたんだっていうことです。
で、話が、和美さんが聞きたがってる話とずれちゃったらごめんなさい。
私たちはお客様に感動を与えなきゃいけないんです。
どんなことでもそうです。
だからこういうとおかしいけど、うちパーティーやってる。
パーティーやって一生懸命感動を与えるようにしているんです。
で、パーティー一つ見ても、感動を与えられないやつって何でも嘘なんです。
全部がだめなんです。
感動という感性なんです。
思い遣りなんです。
歌と同じなんです。
一曲歌って下手な奴、みんな下手なんです。
押し並べてこんなもんですよね。
うまいねって言ったって、美空ひばりよりうまくはならないですよ。
でも感動なんてのはね、歌と駆け足は天性なんです。
でも思いやりはどんどん出てくるんです。
演出もどんどん出てくるんです。
出す気になった時に湯水のごとく出てくるんです。
最高の演出は近くにある
お釈迦様が「この世の中は苦であると悟れ」って言って、「世の中は苦労なんだ」、「世の中はたいへんなんだ」、たいへんなんだ、たいへんなんだ…って言ってたお釈迦様が、菩提樹の木の下でですね…沙羅双樹か…沙羅双樹の木の下で死ぬんです。
死ぬ前に何言ったかっていうと、「世の中は美しい」、「周りの景色見ると、この地球は美しいんだ」と。
それから、「人生は甘美である」、「甘くて美しいんだ」と。
これが世の中は苦であると悟れ悟れって、ずーっと言ってた人が死ぬ前に言った言葉が、本当は、
「この地球って花も咲くんですよ。
夜になると月夜もきれいなんですよ。わかりますか。
昼間の景色もいいんですよ。
春も良い、秋も良いんですよ。
神様の最高の演出の中に俺たちは生きてるんです。
この地球こそは、ほんとに美しいんですよ。
で、人生もほんとはいろんな波乱万丈…いろいろあるけど、実にね、甘美なんです」
お釈迦様が最後死ぬ前に言ったのは、苦であると悟れと言いながらも、
「本当は最高の、俺たちは演出の中に生きてるんだよね。
鳥見ても蝶見ても、何見ても最高の演出の中にいるんだよね」
この演出の中にいるということに気が付けない人間がろくな演出はできないんです。
このすばらしい…病気した、病気から何を学んだのか。
治ったんだ、これをどうしたら人に伝えられるか。
最高の喜びとはどこかで誰かの役に立ってるはず。
ってことは、自分が思い悩んだこと、思い悩んでて治ったら、「どうしたら治せるんだよ」、たったこれだけで人を救えるんです。
どこかで誰かの役に立ってる。
どうせ役に立つならどうしたらいいか。
それも演出なんです。
感動なんです。
だからまず自分たちが最高の演出、まして日本なんていうのは、四季が一番はっきりしてんの。
この演出の中に生きてるんだ、最高の演出に気が付かない人間が、演出なんかできないんです。
日本漢方っていうとこへ来た。
周り見た時こんだけの人間がいるんです。
この人たちが我々に感銘を与えてくれてるんです。
あのパーティー来た時の、一人一人が仲間なんですよ。
自然見ても、人間見ても、俺たちは感動を受けてるんですよ。
最高の配置なんです。
そこにまた、本来は最高の配置の人が来るんです。
気が付かないからそうじゃない人間しか集まんないんです。
気が付いた時から自分を表現できる最高の人が集まり出します。
っていうことで、以上です。
この記事へのコメントはありません。